先日、春は憂鬱ということを書いたが、
実は、冬も憂鬱というか、残念な気持ちになる。
2月になると、毎年彼の実家に、
その時仲良かった飲み仲間かつ上司と一緒にお参りに行っていたのだけど、
札幌に来て数年、少し忘れかけていたが、先日、ふと思い出した。
それは30歳で急死した同僚K さんのことだ。
オイラは新卒採用というのを経験したことがなく、
29歳にして初めて同期というものに恵まれた。
がしかし、その会社は、最近流行りのいわゆるブラック企業。
某D社の携帯電話と、事務機器を売る会社だったのだけど、
毎日夜は11時、12時、最高記録は、朝の3時くらいだったかな?
勤務時間も、営業ノルマも、社長の性格も全てがぶっ飛んでいた。
この頃は会社向えの当時出来て間もない吉野家ばかり食っていた。
社長も飲むのが好きでしょっちゅう付き合わされた。
おごってもらってばかりいたが、
2時、3時まで飲んで、朝7時に起きたり、
ある時は、朝7時の会議があったりと、
とにかく心も体もくたくただった。
オイラのように、社長に怒鳴られようと、売上が伸びなかろうと、
良く言えば図太く、悪く言えばいい加減な人間は、
きつくとも何とか耐えられたが、
変に馬鹿真面目な同期のKさんは、そういうことが駄目みたいだった。
朝、会社を出てそれぞれ営業活動をしていたけど、
昼休みに合流して、一緒に昼飯をくったりしていた。
そのたびに彼は「全然契約とれない」と本気に悩んでいるのだ。
彼は、その前にも幾つか営業の仕事を経験しており、
そのこのもあったためか、ヤバいヤバいといつも言っていた。
一方、オイラは、まだ始めたばかりだし、
しかもオイラは初体験の職種だったので、
契約取れなくて当たり前、時間がかかるものだと、全く気にしていなかった。
K さんは、この会社に入るまで、東京に暮らしていた。
少し生い立ちを書くと、高校は函館西高校という北島三郎と同じ高校出身で、
高校時代は、何と!GLAY のドラムをやっていたらしく、
卒業時、バンドを続けて上京するか?という時に彼は脱退したらしい。
だから今のGLAYは雇われドラマーしかいない。
もし、その時、バンドを続けていれば、彼にどんな人生が待っていたのだろう。
人間の一生とは何なんだろう。
そんなほんの一瞬の判断が、その後の長い人生を左右するなんて。
その後彼はいくつかの職を経験をして、
ハードワークで体を壊し、故郷の函館に妻子と共に帰ってきたけど、
仕事がなかなか決まらないKさんに業を煮やし、妻子は東京の実家に帰ってしまった。
その後離婚したらしい。
そして、函館でも仕事がうまくいかず、オイラと同じ仕事へ就いたとのことだ。
そういうことがあったからなのだろう。
だから、離婚はしたけれど、とにかく頑張って、仕事を軌道に乗せて、また妻子と暮らしたい、
というようなことをよく言っていた
時々、東京に会いに行って、ディズニーランドの写真も見せてもらったことがある。
そんな彼がある日、職場に何の連絡もなく来なくて休んだ。、
彼は飲んだ次の日、よく頭痛がするといって休んだり遅刻していたので、
またそれか、と思っていたが、
いつも電話すると出るのに、その日は何度電話しても全く出なかった。
皆、「いつもと違うな」と疑念が走り、
家に行った方がいいという話になった。
K さんを含めて営業は4人。オイラと飲兵衛の上司とが、彼の家に様子を見に行くことになった。
その時、上司と一緒に車でKさんの道営住宅に行った時のことははっきり覚えている。
ともて気持ちのよい晴天だったが、とにかく寒い日だった。
道南の函館でも最高気温が-4度位だったと思う。
彼の部屋の玄関のドアを何度たたいても、呼びかけても返事なし。
今思えば、その時すでに彼は息絶えていたのだ。
時間をおいて、再訪するも、同じ。
食糧を置いて一度退散。
会社の常務に連絡し、お姉さんに連絡。
お姉さんから住宅の管理人に連絡してもらい解錠してもらった。
先にお姉さんに行ってもらい、
その少し後に、オイラと上司が現場へ。
お姉さんの話によると、うつ伏せになって、鼻と耳と目から血を吹いて死んでいたらしい。
オイラが行った時は仰向けになっていて、顔に布がかけられていたが、
隙間から耳から寒天状の様な血の固まりが吹いていた跡が見えた。
オイラはこんな状態の死人を見るのが初めてだったので、すっかり驚き固まった。
これが、今ののところ、後にも前にも我が人生41年の中の一番衝撃的な死であった。
部屋には、カップラーメンが山積みになっていて、
玄関のドアには聖教新聞がたまっていた。
悩んでいたのか、創価学会に入信もしていたみたいだ。
上司曰く、一途な人には、創価学会の人が多いと言うようなことを言っていた。
炊事をする体力がないから、カップラーメンばかり食っていたのだろう。
とにかく彼は死んでしまったので、鑑定があるし、
あとは警察に任せてオイラたちは退散した。
仕事していた時から、彼は時々、手が震えていて、
影では皆、薬をやっているのではないか?と噂になっていた。
本人に聞くと、喘息の薬といつも答えていた。
でも、精神科に通っていたことがあり、うつの薬を服用していたことは聞いていたので、
死んだ後、皆で言っていたのは、
うつ病の薬や睡眠薬を大量に飲んだのでは?とか、
やはりやばい薬をやっているのではないか?と色々憶測したが
検死の結果は脳卒中による死との結果だった。
その日は、それ以降全く仕事にならず、
オイラと上司、営業部長、常務とで夜まで話していた。
途中、皆ワンワンと声を上げて泣いたりしたが、オイラは例のごとく冷静冷徹沈着で
少し涙ぐんだだけで、声をだしてボロボロ泣くようなことはなかった。
その時オイラは、我ながら、こういう人間なんだということが、わかった。
それから少し後、オイラはその会社を退職した。
その後、数年は実家にお参りに行っていたけど、
やはり段々と行かなくなり、札幌にきて、飲み仲間の上司とも疎遠になり
K さんのことは忘れていたのだが、
少し前に、荷物を整理している時に上の写真の名刺が出てきて思い出しのだ。
オイラも色々な考えを思いたち、色々な仕事をしてきたけど、
最近は何をやっても同じなような感じがする。
どの会社も仕事も根本は同じな感じがして、
そう考えると、働くことも生きることもつまんねぇなぁーと時々思う。
オイラは19,20の頃から、どこか遠い知らない世界をバイクで旅して、ただ美しい空や山や海や花や人を見て、静かに幸せな気持ちになれればそれでいいんだ。
彼のことを思い出しながら、そんなことを考えた。
実は、冬も憂鬱というか、残念な気持ちになる。
2月になると、毎年彼の実家に、
その時仲良かった飲み仲間かつ上司と一緒にお参りに行っていたのだけど、
札幌に来て数年、少し忘れかけていたが、先日、ふと思い出した。
それは30歳で急死した同僚K さんのことだ。
オイラは新卒採用というのを経験したことがなく、
29歳にして初めて同期というものに恵まれた。
がしかし、その会社は、最近流行りのいわゆるブラック企業。
某D社の携帯電話と、事務機器を売る会社だったのだけど、
毎日夜は11時、12時、最高記録は、朝の3時くらいだったかな?
勤務時間も、営業ノルマも、社長の性格も全てがぶっ飛んでいた。
この頃は会社向えの当時出来て間もない吉野家ばかり食っていた。
社長も飲むのが好きでしょっちゅう付き合わされた。
おごってもらってばかりいたが、
2時、3時まで飲んで、朝7時に起きたり、
ある時は、朝7時の会議があったりと、
とにかく心も体もくたくただった。
オイラのように、社長に怒鳴られようと、売上が伸びなかろうと、
良く言えば図太く、悪く言えばいい加減な人間は、
きつくとも何とか耐えられたが、
変に馬鹿真面目な同期のKさんは、そういうことが駄目みたいだった。
朝、会社を出てそれぞれ営業活動をしていたけど、
昼休みに合流して、一緒に昼飯をくったりしていた。
そのたびに彼は「全然契約とれない」と本気に悩んでいるのだ。
彼は、その前にも幾つか営業の仕事を経験しており、
そのこのもあったためか、ヤバいヤバいといつも言っていた。
一方、オイラは、まだ始めたばかりだし、
しかもオイラは初体験の職種だったので、
契約取れなくて当たり前、時間がかかるものだと、全く気にしていなかった。
去年5月に手放した車にいつも付けていた彼の名刺 |
K さんは、この会社に入るまで、東京に暮らしていた。
少し生い立ちを書くと、高校は函館西高校という北島三郎と同じ高校出身で、
高校時代は、何と!GLAY のドラムをやっていたらしく、
卒業時、バンドを続けて上京するか?という時に彼は脱退したらしい。
だから今のGLAYは雇われドラマーしかいない。
もし、その時、バンドを続けていれば、彼にどんな人生が待っていたのだろう。
人間の一生とは何なんだろう。
そんなほんの一瞬の判断が、その後の長い人生を左右するなんて。
その後彼はいくつかの職を経験をして、
ハードワークで体を壊し、故郷の函館に妻子と共に帰ってきたけど、
仕事がなかなか決まらないKさんに業を煮やし、妻子は東京の実家に帰ってしまった。
その後離婚したらしい。
そして、函館でも仕事がうまくいかず、オイラと同じ仕事へ就いたとのことだ。
そういうことがあったからなのだろう。
だから、離婚はしたけれど、とにかく頑張って、仕事を軌道に乗せて、また妻子と暮らしたい、
というようなことをよく言っていた
時々、東京に会いに行って、ディズニーランドの写真も見せてもらったことがある。
そんな彼がある日、職場に何の連絡もなく来なくて休んだ。、
彼は飲んだ次の日、よく頭痛がするといって休んだり遅刻していたので、
またそれか、と思っていたが、
いつも電話すると出るのに、その日は何度電話しても全く出なかった。
皆、「いつもと違うな」と疑念が走り、
家に行った方がいいという話になった。
K さんを含めて営業は4人。オイラと飲兵衛の上司とが、彼の家に様子を見に行くことになった。
その時、上司と一緒に車でKさんの道営住宅に行った時のことははっきり覚えている。
ともて気持ちのよい晴天だったが、とにかく寒い日だった。
道南の函館でも最高気温が-4度位だったと思う。
彼の部屋の玄関のドアを何度たたいても、呼びかけても返事なし。
今思えば、その時すでに彼は息絶えていたのだ。
時間をおいて、再訪するも、同じ。
食糧を置いて一度退散。
会社の常務に連絡し、お姉さんに連絡。
お姉さんから住宅の管理人に連絡してもらい解錠してもらった。
先にお姉さんに行ってもらい、
その少し後に、オイラと上司が現場へ。
お姉さんの話によると、うつ伏せになって、鼻と耳と目から血を吹いて死んでいたらしい。
オイラが行った時は仰向けになっていて、顔に布がかけられていたが、
隙間から耳から寒天状の様な血の固まりが吹いていた跡が見えた。
オイラはこんな状態の死人を見るのが初めてだったので、すっかり驚き固まった。
これが、今ののところ、後にも前にも我が人生41年の中の一番衝撃的な死であった。
部屋には、カップラーメンが山積みになっていて、
玄関のドアには聖教新聞がたまっていた。
悩んでいたのか、創価学会に入信もしていたみたいだ。
上司曰く、一途な人には、創価学会の人が多いと言うようなことを言っていた。
炊事をする体力がないから、カップラーメンばかり食っていたのだろう。
とにかく彼は死んでしまったので、鑑定があるし、
あとは警察に任せてオイラたちは退散した。
仕事していた時から、彼は時々、手が震えていて、
影では皆、薬をやっているのではないか?と噂になっていた。
本人に聞くと、喘息の薬といつも答えていた。
でも、精神科に通っていたことがあり、うつの薬を服用していたことは聞いていたので、
死んだ後、皆で言っていたのは、
うつ病の薬や睡眠薬を大量に飲んだのでは?とか、
やはりやばい薬をやっているのではないか?と色々憶測したが
検死の結果は脳卒中による死との結果だった。
その日は、それ以降全く仕事にならず、
オイラと上司、営業部長、常務とで夜まで話していた。
途中、皆ワンワンと声を上げて泣いたりしたが、オイラは例のごとく冷静冷徹沈着で
少し涙ぐんだだけで、声をだしてボロボロ泣くようなことはなかった。
その時オイラは、我ながら、こういう人間なんだということが、わかった。
それから少し後、オイラはその会社を退職した。
その後、数年は実家にお参りに行っていたけど、
やはり段々と行かなくなり、札幌にきて、飲み仲間の上司とも疎遠になり
K さんのことは忘れていたのだが、
少し前に、荷物を整理している時に上の写真の名刺が出てきて思い出しのだ。
オイラも色々な考えを思いたち、色々な仕事をしてきたけど、
最近は何をやっても同じなような感じがする。
どの会社も仕事も根本は同じな感じがして、
そう考えると、働くことも生きることもつまんねぇなぁーと時々思う。
オイラは19,20の頃から、どこか遠い知らない世界をバイクで旅して、ただ美しい空や山や海や花や人を見て、静かに幸せな気持ちになれればそれでいいんだ。
彼のことを思い出しながら、そんなことを考えた。
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