2022年1月6日木曜日

1997年9月22日~10月29日・24歳 八重山諸島、岐阜、白川郷、東京、新潟県新発田市とかのバイク旅

小樽港~舞鶴港~大阪南港かもめフェリーターミナルへ

<9月22日> ~早朝走行は寒さとの戦い
 この春に僕は大学を出たのだが、4年生になっても、全く就職する気が起きなく、
やりたい仕事も、できる仕事も全くないので、就職しないで、旅をすることにした。
夏までビアホールなどでアルバイトで働いた後、
ついにこの日、高校生からの夢であった日本最南端への旅に出発した。1

0時30分小樽港発のフェリーに乗るべく、自宅のある七飯町を早朝4時頃出た。
寒さで一気に体力を失ってしまい、
フェリーでは早速会ったライダーとの語らいも少しだけにして、あとは寝てばかりいた。

 僕は、フェリーの長旅は初めてだったのだが、旅慣れている人は、
乗る前にコンビニで食糧を調達してきていた。
僕は、食堂があると思ったので、買わずに来たが、
やはり2食分くらいはコンビニで買ったほうが安上がりだろう。



☆この旅行記をもとにしたものが、
バイク雑誌「モーターサイクリスト」(八重洲出版)
の1998年8月号に掲載されました。イエイ!


大阪南港~台湾行きフェリー
有村産業とかの船
今あるのかね









<9月23日> ~無人駅に泊まる
 夕方、ついに京都の舞鶴港に到着。何十分かバイクをとばし、無人駅に泊まることにする。思ったよりも気温が低く、本州に渡ったという実感が湧いてこない。さらに走り出したらいきなり小雨が振り出してきて、また寝床も決めていないこともあり、先行き不安になった。そして、やはり駅ではベンチの固さと通過列車のうるささでなかなか寝付けなかった。









<9月24日> ~大阪港へ
 朝4時頃目が覚めた。2,3時間くらいしか眠れなかった。外に出ると、「さ!寒い!!」天気も悪い!前の年の北海道ツーリング同様、序盤から天気には恵まれない僕であった。
 8時頃、日本三景の天橋立に着いた。人影も少なく、当然店も閉まっている。展望台に登るロープウエイもまだ営業していない。バイクで上れる所まで行き、記念撮影をして出発した。天橋立には悪いが、地元の大沼国定公園の方が絶景だと思った。

 途中、兵庫県日高町の植村直己冒険館に寄ろうと思ったが、休館日。宝塚市の手塚治虫記念館に寄ったが、そちらも休館日。ついていない。道中、大型トラックにおびえ、巨大なマンション、ビル群に驚きながら大阪港まで自走。午後3時半頃港に着いたが、出航時間は、翌午前0時過ぎなので、近くの町の公園でぼけーーーーーーーとしていた。

 夜になって、フェリーターミナルの待合室に戻ったが、時間近くなっても全く人が込んでこないので不安になって、近くの人に聞いたら、同じ船に乗る人で、その人も不安だったらしい。結局、時期はずれのため、観光客は、全部で10人くらいだった。しかし、人が少ないおかげで、出発前から、早くも話が弾み、友達になった。




大阪港から石垣港へ!!!!

<9月25日> ~長い!2泊3日のフェリーの旅
 ここから一気に石垣島までフェリーで行く。会った旅人たちはたいてい一人旅で、みんな確かにそれぞれ自分の生き方を持っていた。

 フェリーの旅というのは、結構暇である。石垣港に着くのは27日だったので、かなり退屈だった。本を持ってきていたが、すぐに飽きてしまった。他の人も、本を読んだり、ゲームボーイをしたりしていた。あとは他の旅人としゃべったり、映画を見たり、甲板にでて潮風に吹かれながら海をボーと見たり、トビウオがやたらいたので、そいつを見たり、海鳥を見たり。あ、あとイルカを見たり。それから、フロントのお姉さんに綺麗な人が何人かいたので、その令嬢と話したりしていた。


客室がガラガラだったので、クーラーが効きすぎていたが、あとはとにかく快適であった。逆に夏はみんながクーラーをつけるので、結構暑いらしい。ベットの上でごろりとしながら、「あーーきっと働き始めたら、もうこんな旅はできないだろうなーーー」と何度も考えた。「一生こんなこんなとしてくらせたらなー」といつものことも考えた。

<9月26日>
 船の中でぶらぶら、ボーとしていた。





ついに石垣島!!!!!!!

<9月27日> プー太郎と変わり者のたかり場・石垣島米原キャンプ場
 結局、本日石垣島に着き、そこを拠点にいくつかの離島へ行った。
沖縄での暮らしは、海と空と泡盛の日々だった。

その他の行動としては、あこがれの長い野宿生活、ナンパ、シュノーケリング。
澄んだ海と色鮮やかな熱帯魚には驚いた。

あそこまで綺麗だとは思わなかった。結局、10月9日までの間に、
日本最南端の波照間島、最西端の与那国島に行ったことで、
最東西南北端制覇という目的は達成された。(ただバイクで行っただけだけど)。

僕と一緒に日本の四隅に行ってくれたセローはもう一生売ることのできない思い出のバイクとなった。
(と、当時は書いていたが、2001年6月に新潟の渡辺さんに売った (-_-;)   ) 

 キャンプ場は、他に人がいないので、長くテントを張っていると、すぐに友達になれる。
というか、そこにいる人としゃべったり、酒飲んだりしないと、他にやることがないのである。
学校やバイト先ではうちとけるのに時間がかかるのに、
ライダー同士というのは、どうしてこうもすぐに打ち解けられるのだろうか。

ここで、石垣島で会った馬鹿な旅仲間を紹介しよう。

①宮本君
ハンターカブ110で日本縦断してきた奴。
春に横浜国大を卒業したなかなか受験勉強のできた奴。実家は札幌。
教師を目指しているが、学歴偏重主義なところがたまにキズ。

②刀1100の田中さん
俺と同じ歳だが、「ここは俺のいるところではない」と言って高校中退。
横浜市在住。ここにくる前は佐川急便で働いていて、みんなに「よく続いたなー」と感心されていた。

だから金はあった感じだ。今回の予算も50万円と言っていた。
ナンパなれしていて、何かと助かった。とりあえず酒豪だった。
居酒屋に行くと間髪いれずの「まず生ください」のセリフが印象的だった。
今年(98年)の夏は北海道に来るので、会う予定。

③SRの人
山口県に実家があるが、那覇市に部屋を借りていて、家賃を滞納している。
石垣市内でナンパされてその子と付き合っている。けど、那覇にも彼女がいる・・・・。
今の彼女は、なんと!ホテルの社長のお嬢さんらしい。

彼もナンパなれしていて、いつも刀1100の田中さんと何かをたくらんでいた。
高校中退したが、定時制に入り直し頑張って卒業したといっていた。
石垣島で職を探し定住するらしい。

④セローの人
宮城県からきた21歳。ほぼ日本一周している。高校卒業後からバイトと旅の繰り返し。
そんな自分を
「俺、病気っすよー、やばいっすよー、どんな大人になるかと思うっすよー」
と言っていた。
「北海道いいっすよー」が口癖。世界一周が夢らしい。
この旅の翌年(98年)の3月末ぐらいに手紙が来て、
オーストラリアに行って来たと写真が入っていた。僕は何だか少し悔しかった。

⑤野性の人
キャンプ場の前の海で釣った熱帯魚を焼いて食べていたので、この名がついた。
別名パッスル(スクーターの名前)の人。

名古屋大学の農学部2年生。すごいなと思った。
でも、その何ヶ月後の正月に、年賀状が来て、そこに

「今僕はアルバイトをしていて、この前高校生にちんちんをしゃぶってもらってウハウハでした」
というバカ丸出しの年賀状がきて、あせった。

バカなのは知っていたが、僕は親と住んでいたので、見られたのではないかとあせったのである。
パッスルはパワーが少なくて、荷物満載だと急な坂を登れないらしい。
彼は前期の試験を捨てて、空手部の部室に「旅に出ます」と紙切れ一枚残し、
7月中旬に北海道へ渡った。あとは、2ヶ月くらいかけて南下。10月7日に帰った。
 
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 主だった仲間はこんな所だが、この他にも、今は石垣市内で働いているが、
石垣島の米原キャンプ場に15年ほど住んでいたという「ハブじい(ハブじいさん)」
(夜になると木の棒を持ってハブを捕りに行き換金している)や、3月に仕事を辞めてから
、九州、ハワイ、北海道、沖縄と旅づくめのロンゲの兄さんや、

毎年夏は石垣島で2ヶ月キャンプをするという東京芸術大学大学院の日本画科の女の子や、
30歳、40歳で仕事を辞めて来た人や、キャンプ場に住み着いてる人など、
米原キャンプ場は無職と変わり者のたかり場であった。

そんな人と話をして私は「やりたいことはできるな。みんな怖いものなしだな。人生どうにでもなるなー」
などと思い、人生を少し安心できたのであった。


☆☆☆9月28日から30日までの記録が途絶えているが、
確か、この間は石垣島内を探検したり、キャンプ場前の海で泳いだり、
夜は街にみんなで繰り出して、飲み明かしたり、
ナンパしたり、高速船で10分の竹富島に行ったりしていた・・・・・☆☆☆






























<10月1日> 与那国島

 今日は日本最西端の地・与那国島へ行く。
フェリーの本数が少なく、波照間島行きの日程とあわせるのに結構迷った。
天気が良いのに外海へ出ると船は揺れた。
4時間もあの小さな船に揺られたので、船酔いしてしまった。

 島に着き、まず札幌の友人へ最西端から自慢の手紙を書いて、一人で勝ち誇っていた。
祖納(そない)の街へ入り、キャンプ地を探していると、築港脇の砂浜に、
フェリーの中で話をした是津(ぜっつ)君がいたので、一緒にテントをはることにした。

彼は埼玉県から来た25歳。はやり例によって無職であった。
夕方、彼と一緒にバイクで島をぶらーっとすることにした。

小さな島なので、あれよあれよという間に一周してしまった。
東崎(あがりざき)付近では、メジロとツバメとトノサマバッタがバイクが通るとともに飛び交い、
与那国馬に食べ尽くされた草原はゴルフ場のようにきれいに手入れされた芝生のようできれいだった。
その様はまるでどこか遠い外国のようであった。
島の名につくように、ここは一つの独立した国なのだなーと思った。

 比川(これかわ)から最西端の岬である西崎(いりざき)へ向かうとき、
ちょうど夕日が沈みかける最中で、僕らはまさに夕陽の中を突っ走っていて、最高の気分だった。
まさに「夕陽へ向かって走れ!」状態だった。是津君と日本最西端の地で記念撮影し、
最西端の夕陽を見て、とにもかくにも最西端尽くしであった。

 夜目が覚めて、空を仰ぐと満点の星であった。
沖縄に来て思ったのは、本当に星の数が多く、きれいだということだ。
天の川も生まれて初めて見ることができた。

<10月2日>
 翌朝、僕はもう少し島にいるという是津君を残し、
石垣島へ帰った。またいい仲間と出会えた。















約10日間滞在した
石垣島米原キャンプ場の
好きだったこの場所。
いつもここで飲めない酒を飲みながら夕焼け見ていました


<10月3日> レンタルバイク代けちって地獄の波照間島

 いよいよ最南端の波照間島へ行く日が来た。
この後の予定を考えると、どうしても日帰りしなければならず、
やむを得ず、バイクを石垣島に残し、高速船で波照間へ向かった。

わずか50分の航行だ。この日も与那国島同様、最高の天気だった。
というか、無茶苦茶に暑かった。

まず、レンタル自転車のある店を探しながら何十分か歩いたが、
この時、既に熱地獄であった。さらに、レンタルバイク代をけちって
自転車にしたことがさらに我が身を地獄へと導いた。汗はダクダクなのに、
タイヤの空気もぬけているし、ママチャリで、ギアはついていないし、
レンタル店のババはボーとしていて何を聞いてもピンときていないし、「さすが島だ・・・・」と思った。

 幾多の困難を乗り越え、ようやく日本最南端の碑にたどり着いた僕は疲れきって、
かなり事務的に記念撮影をこなし、一応は「これが最南端かーーー」
などとつぶやきながらセンチな自分をきどってみた。

 そうこうしていると、女の子2人組から声を掛けられ、写真を撮ってあげた。
後日、先にでてきた③SRの人の話を聞けば、
その片方の女の子を彼がナンパしたらしいということが発覚した。
確かにかわいいかった(片方は)・・・・・・。

 夢とロマンの波照間島も、最南端の碑を見たら、あとは何だかどうでもよくなってしまい、
再びチャリンコを走らせ、レンタル店に戻った。

そこで昼飯を食ったのだが、何と!メニューはチャーハンとそばのみだった。
そこから徒歩で港まで行き、昼ぐらいの高速船に乗って帰った。波
照間はレンタルバイクをけちったおかげで、ひたすら暑いだけだった・・・・・・・・・・。



























<10月6日> 西表島 Falling in love in Iriomote Island・・・・・・・

 西表島では隣にテントを張った女の子と一緒にごはんを食べた。
次の日、彼女が、水牛で渡ることを目玉としている由布(ゆふ)島へ行くというので、そこまでバイクで送ることにした。

前夜、テントに忍び込んだら怒られた。
そのおかげで彼女は眠れなかったらしく、悪いことをしたと思った。
でも、バイクでほんの30分ほどだったが、恋人気分で幸せだった。

彼女は軽井沢の民宿で住み込みの仕事をしていて、休みをもらって来たらしい。
年は25。住み込みの仕事と旅の暮らしをもう4年くらいしているらしい。
僕の理想の生き方だ。僕も大学卒業後、2,3年くらいはそういう暮らしがしたかった。

 僕は、この後、東京方面へも行く予定だったので、
彼女に軽井沢へ行ったら駄目かと聞いたら、彼氏がいるから駄目だと言った。

別れる前に記念写真を撮った。キャンプ場に戻り、荷物をまとめ、
再び彼女を乗せて通った道と同じ道を、港へ向けてバイクを走らせた。
坂をあがると、由布島が見えた。彼女がいるかと思うと自然と涙があふれてきた。

 短くもはかない24の夏の恋であった・・・・・・・・・・・・。

 フェリーから遠ざかる西表島をじっと眺めていた。
僕にとって西表島は一生忘れらない思い出の島となった・・・・。








さようなら石垣島とみんな

<10月8日>
 西表島から再び石垣島の米原キャンプ場に戻ってきた。
とうとう明日でここともお別れだ。

キャンプ場の仲間たちで送別会をしてくれることになった。
僕が西表島にいる間に、帰ってしまった仲間もいて、少し淋しかった。

 送別会といっても、街に飲みに行くだけである。
フェリーが朝の7時10分なので、朝までつきあってくれるという。

こっちにきてからは、飲むといつも朝までだった。
1件目の店で、まず12時、1時の閉店までいて、
それから朝の4時、5時までやっている人情屋台で眠りながら酒を飲む。
そして、キャンプ場へふらふらになりながら帰り、昼まで寝て、午後からナンパ。
これがいつものパターンだった。

 刀1100の兄さんが、俺のために有終の美を飾ろうと、
女の子に声を掛けたが、3人のうち、2人が乗り気でなく、駄目だった。

しょうがなく野郎3人で飲み屋へ向かった。朝方、桟橋のベンチで寝た。
 時間が来た。仲間に別れを言う。

 ほんの12日間ぐらいの八重山だったが、かけがいのない思い出がたくさんできた。

 石垣島・・・・また必ず来るぞ・・・・





本州上陸!

<10月11日> 岐阜県美濃加茂市の友に再会

 朝7時頃、名古屋港着。途中、那覇港で、先に帰った野生の人と、
行きのフェリーで一緒だった奈良のおじさんと再会し、驚いた。

世間は狭いなー。その後、96年夏に一緒に北海道の道東、道北を旅した友達が、
岐阜県美濃加茂市にいるので、そこに3日ほど、滞在した。
釣りに行ったり、あちこちドライブに連れてもらったりした。久し振りにあえてうれしかった。

<10月14日> 水の街・郡上八幡町。合掌造りの白川郷

 朝8時頃、出発。友達は仕事。
途中、水の街、郡上八幡町の町並みをゆっくり見た後、
合掌造りで有名な五箇山、白川郷の合掌造りのユースホステルで一泊。
東京の医大生と会っていろいろと話をした。気温が低く、夕方から雨に降られ震えながらの宿への到着であった。

















<10月15日> 白川郷
 翌朝、雨はあがった。
ちょうど白川村は「どぶろく祭り」の最中で、街は活気付いていた。
カメラマンがたくさんいた。今朝、埼玉の自宅をでてきたというおばさんから

「日本1周でもしてるの?」と声を掛けられ、
北海道からきて石垣島などに行ったことを話すと、「若いってすばらしいね」とうらやましそだった。

 街を出て、途中の天生峠は紅葉真っ盛り。多治見市のおんぼろ旅館に泊まる。
















<10月16日>
 午前中に床屋へ行った。本州の床屋は高い。4,300円であった。
昼頃、途中の街でオイル交換。次第に車が増えて嫌になっている。
浜名湖近くのキャンプ場(閉鎖中であったが)で野宿。

<10月17日> 太平洋沿い~花の都東京
 太平洋沿いに出ると車も多く、景色もこれといったものがなくなり、つまらなくなっていた。
疲れもたまってきていて、早く埼玉の兄の家でくつろぎたいという思いが強くなってくる。

 天女があ羽衣をかけたという羽衣の松を見て、
さくらももこの故郷、清水市から高速道路に乗って一気に東京まで行った。

それから兄の家に1週間ほど滞在した。新宿歌舞伎町でぼったくりにあい、
青ざめ、大学めぐりでは、芸大では石垣島であった女の子のバイクを見つけ、
一人感動し、渋谷では女の子がみんな茶髪でミニスカにロングブーツで、上
野のこじきを見て、「ニッポン万歳!」と叫び・・・・僕は一体何をやっているのだろうか・・・。
 
 都会のごみごみしたのみ嫌だが、沖縄の島ではあまりに刺激がなさ過ぎて、
ずっとここにいたら人間が駄目になるのではないかと、友達と話していた。














<10月25日> 新潟へ
 兄の友人であり、95年夏に一緒に宗谷岬へ旅した新潟県の
渡辺さんの家を目指して、兄の家を出た。

雨と寒さの中、9時間かかるも意外に疲れは少なかった。
次第に長距離運転に鳴れてきたのだろうか。
二年ぶりに渡辺さんに会う。

2日ほどそこにゴロゴロすることにする。
新潟にいる間は土砂降りで、あられも降ってきた。
私は北海道に帰ることができるのだろうか・・・。

ついに旅の終わり!!!!!

<10月28日~29日> 新潟港~小樽港~ニセコ~長万部~七飯町
 10時発のフェリーで小樽へ帰る。
新潟港で、この寒い中北海道を周るという強者ライダーに会った。
やはりこの人もプー太郎であった。
今回の旅で一体何人のプー太郎に会っただろうか。やはり旅人はプーでなくちゃ!?
 
 明朝4時小樽港着。気温3度の中、実家のある七飯町に向かう。
ニセコの辺りでは、道路脇に雪が積もっていた。

 寒さで意識が朦朧とした。山で遭難した人はこんな風に死んでいくのかな
、などと考えながら走っていた。かなり泣きが入った。
我がバイク人生の中でも1,2位を争うほどの寒さであった・・・・・・・。


 37日間に及ぶ長かった旅も、事故もなく無事終えることができた。
今回のたびで、僕の旅の目的は果たすことができたが、
今旅を終えてみて、旅の中でいろいろな旅仲間と過ごすことができたのも良かったが、
僕は次に、社会の中での目標を、社会と結びついた目標を決めなければならないと、強く思った。

 次はいつ旅立てるだろうか・・・・・・・・・




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